伊勢海老との夜
高校の頃だった。
離島に住む母の友人が、生きた伊勢海老を数匹、発泡スチロールのクーラーボックスに入れて家に送って来た。生きた伊勢海老など水族館以外で見ようもない、料理屋でこんな数を頼むほどの身分でもないので、驚き喜んだ。
その日、伊勢海老は日の当たらない北向きの部屋に置かれることになった。翌日の晩飯になるという寸法である。
その部屋には私の勉強机があった。夜6時7時まで部活をし、帰宅してから予習をするため、寝るのは家族で一番最後だった。
その夜、皆が寝静まってからも、私は伊勢海老と共に取り残され、英語だかなんだかをやっていた。すると、箱からカリカリと音がする。およそ密室に閉じ込められた全ての動物がするだろう、自分と外界を隔てる壁に攻撃を図るという行動を、この海の節足動物も取っているのだった。
年末のガキの使いやあらへんで笑ってはいけない○○でヘイポーが暗闇の密室に閉じ込められているのとまるで同じだ。ヘイポーと違って伊勢海老は声は出さないが、カリカリカリカリと発泡スチロールをその爪で掻き続けていた。
発泡スチロールを掻く音というのはあまり快い響きではない。私はとりあえず箱の蓋を開けてみた。壁を掻き破って伊勢海老が出てくるのではないかと少し思ったからだ。しかし発泡スチロールに対して伊勢海老の爪はあまり強いものではなく、その心配は無用だと分かったので、一旦蓋を閉めた。
カリカリガリガリと、伊勢海老の反抗は続いた。もともと勉学に対する集中力というものを持ち合わせず、新鮮な刺身や寿司が大好物である私の心は、もう伊勢海老の赤一色になってしまった。
しかし予習をしないと先生に立たされてしまうので、私は平和的にこの伊勢海老を静かにさせようと試みた。発泡スチロールの蓋を上げ、
「なあ、静かにしてくれよ、頼むぞ」
「1時間でいいから静かにしてくれ、な」
などと話しかけた。立てこもり犯を拡声器で説得しようとする刑事もきっとあんな気分になるのだろう。
しばらく、壁に無意味な抵抗をする伊勢海老に、私も無意味な抵抗をし続けたが、事態は好転しなかったので、ええいままよと適当に予習をして寝た。
朝その話をすると、母と妹に笑われた。
夜帰宅すると、台所からなんとも言えぬいい香りが漂って来た。
「生きてるのを捌くのは自信ないから、そのまま鍋に入れた!」
母が言った。
伊勢海老は丸ごと、スープになっていた。
直前まで生きていたコクとうまみが濃縮され、とろりとしたスープになっていた。結婚式場や高級フレンチのコースに出て来ても違和感がない味だった。
「私の人生で一番美味しいのが出来たな〜〜」
母はご満悦であった。