佐藤妹子の備忘録

鬱病7年無職の生活。

本体を先に転送

こんばんは。

現在裏日本蛮族の地から大日本帝國東京府に向かう貧民交通手段、夜行バスの中におります。

荷物搬入はまだだがしかし、先に不動産屋に鍵をもらったり住民票を変えたり部屋の掃除などをするために、数日早く本体とスーツケースで転送されること決定。

 

2012年の2月、大学入試の二次試験のため、初めて私は日本海側にやってきた。特急が日本海側に入ると、路面に白く積もるものが見えてくる。着いた駅には自動改札がなく、サザエさんに出てくるような円形のカウンターの中に駅員さんがいて、切符を裁く。

 

初めて聞いた裏日本の言葉は、自分は東北訛りのような、〜だべというような感じを想像していたのだが、「〜や」「〜ねん」を聞いてすぐに「関西弁だ……」と思ったのを覚えている。

18年間東京と静岡にしか住んだことのない子どもにとっては、 や、やねん、おる、おらんを言う人は全員関西弁だった。この点に関しては大学入学後、語尾は関西だがイントネーションは関西弁とはまったく違うし人のタイプも違うことに気付いた。

 

言葉以外で驚いたのは道路の色だ。

裏日本某地方の道路は何故か茶色かったら黄色かったりする。これは黄砂の影響なのかと思っていたのだが、冬場に散布される融雪剤の影響で、道路の表面もまたサビてそのような色になるらしかった。

 

気候はクソだった。何も降っていなければ晴れという人種の住む土地である。雨はデフォルト、およそ太平洋の民の住める場所ではなかった。そら鬱病にもなりますわな。

 

食べ物は美味しかった。大学一年から続けた和食居酒屋のアルバイトでは、店主ご夫婦に毎日美味しい賄いを作っていただき、海の幸山の幸を堪能できた。裏日本での一番の楽しい思い出はここでのバイトと言ってもいいくらいだ。

 

大学も大学院もそんなに思い入れはない。そもそも自分の勉強不足が招いた事態だから学歴コンプはないし、寒冷蕁麻疹や実家からの距離を鑑みれば、第一志望だったシベリアよりかはあの大学に進学してよかったのだが、やはり精神の深淵がひっかかるのだろうか、最後まで大学行きのバスの情報表示「xx大学行き」がしっくり来なかった。母校に対する愛着のようなものはない。

 

しかし、裏日本で過ごした期間のトータルは楽しかった。授業では様々な知識を得ることができた。サークルもやってなかったし友達もいなかったが、バイクも乗れたラーメンもいっぱいたべた。酒をいっぱい飲んだ。

高校から大学まで一緒だった友人も言っていたが、ここに住んで良かったと思う。鬱になったけど。

 

 

さようなら、もう二度と住むことはない街よ、住みやすく、生きづらい街よ。