佐藤妹子の備忘録

精神障害者のメモ。

逃げるは恥じゃないしめっちゃ役に立つ

知人から「キモい人からキモいLINEとかメールが来まくってて困る」みたいな相談をされることがよくあるのだが、私は毎回「いやブロックすればよくね?」と返す。いやブロックするとかメアド変えればよくね?それだけで楽になるのになぜやらない?意味わかんね~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!「妹子ちゃんはそれができていいよね~(苦笑)」みたいな返しを受けるのも意味わかんね~~~~~~~~!!!!!!!!!!わかってるなら聞くなバーカ!!!!!!!!

 

 

私は「逃げる」ことに関して思い切りがいい方らしい。犬に追いかけられるとかそういうことではない。

 

私が逃げた最古の記憶は、小学一年の春だ。

小学校入学直前に市内屈指のスラムに引っ越した私は、当然その地域で生まれ育ったわけでもないしその辺の保育園に通っていたわけでもないので、斜め向かいの同級生女子Aと一緒に登校することになった。わが子の登校時の安全と交友関係の構築を願って親がアレコレしたかは定かではないが、おおかたそんなところだろう。Aには何個か上の兄がいて、その兄とAと一緒に登校する、というのが当初の取り決めであった。

 

ところがこのAというのがいけすかねえ女だった。まず誕生日が俺より早く、小さいころから運動をやっており体がデカい。それに加えてワガママで頭もよくないし、とにかく俺は初めてこいつと登校した日から無理すぎてカタツムリになりそうだった。またAの兄というのも、一緒に登校を任せられている我々新一年生の面倒を見てくれるわけでもなく、自分の友達とどんどん進んでしまうので、今ではその気持ちはわかるが当時は「こいつは契約違反じゃないか?」と思ったものだった。

さらにAとA兄は時間にルーズな人種で、元々「7:10にAの家を出発する」という取り決めだったのだが、俺がその時間に行っても10分は待たされる。そこで待たされてA兄妹と出発して、さらにA兄が自分の友達の家に寄るので、さらにそこでも数分待たされる。

 

「なんで俺が知らねえやつに待たされなきゃいけないんだ?」と思っても、口が裂けても言えない。この登校は親が決めたことで、相手は土着の民族だし、年上だし、デカイし、俺のようなよそ者で運動音痴の陰の者は逆らってはいけないと思っていたのだ。同い年のAとも、別に同じクラスでもなく共通の話題は皆無だったため、我々の登校風景は、先頭にA兄とその友人、直後にA、こいつらは体がデカくて歩くのが速いので俺は10mくらい後ろを無言でついていくのが常であった。意味ねえ~~~

次第に俺は7:10にA宅に行くのをやめて、Aがうちに来るまで自分が待っているという作戦をとるようになった。これで俺の待ち時間は「A兄がA兄友人を待つ時間」だけになるから、心理的に幾分かマシになるのだ。もっとも出る時間が変わっただけで、俺が後ろをのそのそついていく登校風景は全く変化しなかったのだが。

 

そんなある日、いつものようにA兄の友人宅前で待たされている間、まったく喋らないし不満そうにしているのがバレたのか、Aに

「アンタ、うちがこわい?」

と聞かれた(当時小学生女子DQNの中では一人称「うち」が流行っていた)。その瞬間俺はうわ~~~なんだこいつは~~~~~~!!!!!!!!自分がえらいと思ってはるで~~~!!!!!!!!!!!!!と叫びたい気分だったが、陰の種族なので

「こ、こわくないよ」

と言うのが精いっぱいだった。

そのあとも、いつも通り無言でカタツムリのように登校したのだが、俺の気持ちはマージでむかついたのでアフリカマイマイと化した。

 

その夜、だいちゅきなママに「Aやだ!わがまま!むかつく!行きたくない!やだ~~~~」と訴えたところ、母から

「じゃあAがうちに来る前に家出ればいいじゃん」

との啓示を得た。

これは私の中ではコペルニクス的転回だった。あんたが決めたんじゃないんかいとも思ったのだが、とにかく親から「逃げてもいい」という教えを与えられたのだ。神が与えるものであるところの「時間」に対して金を取ろうと発明したユダヤ人もあんな気持ちだったと思う。

 

というわけで翌日から私は、6:55くらいに家を出るようになった。もちろんそんなに早く行っても学校は開いてないので、教頭先生が昇降口の鍵を開けるのを待つ。しかしそれくらい早く学校に行ってもなぜか来ている陰キャはいるもので、そいつらと到着時刻を競ったりするようになった。

朝早く行くことで、図書室で一冊本を借りて朝の時間中に読み終えることも可能になったし、忘れ物をしても家まで取りに帰れる余裕ができ(ランドセルを忘れて家を出たことも3回あるが授業に間に合わなかったことはない)、いけすかねえアバズレと顔を合わせることもないので実に充実した日々を手に入れることができたのだった。近くに住んでるババアが「今日Aちゃんが7時過ぎにピンポンしに来たよ」と言ってきても、「やばいどうしよう・・・」といった不安ではなく、「うるせえ知るかバーカ!」と考えられるようになった。

 

 

「逃げる」ことは一見臆病に見えるかもしれないが、逃げることで心身健康充実人生を得ることができるなら、圧倒的に楽じゃないか?

逃げろ、どんどん逃げろ、俺みたいに仕事も名前も住所も変えてあとは整形するだけくらいのところまで逃げろ!!

私は修士課程も仕事も辞めたが、病気は治ってないにしろ以前よりもかなりストレスレスな暮らしができている。まじめな皆さんもどんどん嫌な奴はブロックして、嫌なことは辞めて楽に生きたらいいじゃん、意味わかんね~~~~~~~~~~~!!!!!!!!

 

 

 

 

ちなみにAは進学先の高校でいじめられて通信制に転校して実家に男を連れ込みまくってデキ婚した。

 

無職コンプレックス

無職になってそろそろ1年。

 

全然開き直ってない。社会のお荷物であるという罪の意識に苛まれるばかりだ。このような罪悪感、自責感は鬱病ゆえと医者だの何だのにいわれるが、逆に無職であることに罪悪感を覚えないやつらの方が精神異常なのでは?

 

障害年金は月6万ほど。大卒新卒の給与20万と仮定して、働けない人間への施しとしてはあまりに少なすぎないか?

精神障害の場合「就労不能」であることが障害年金の受給要件なので、仕事をしたら最後、月6万すらパァになる。そもそも私はフルタイムで働くのに適応できないゲキ雑魚精神の持主なので、フルタイム週5で働いてはみたものの即精神が悪くなって無職と化したのだ。週2,3のバイト程度なら私の精神的にも年金的にもセーフなのだが、なかなかそんな虫のいい話は見つからないのが辛いところである。

車椅子等々とバリアフリー環境さえあれば、知的精神的には問題がないからバリッバリに働けてなおかつ年金も貰えちゃう身体障害者のみなさんが金銭の面においては羨ましすぎる。

 

こんなはずじゃなかった。国立大学を出て国立大学院を出て、いわゆるエリート企業に就職して老後の施設代金も不安なく生きたかった。

やれボーナスがいくらだの、残業が多いだの、知り合いがそんなことを言っているのを聞くだけで悲しくなる。まっとうな社会生活を送っている自慢にしか聞こえない。

子持ち専業主婦ならば無職の免罪符にはなるだろうが、今から20年以上を自分以外の人間に費やすような覚悟はないし、満足な教育を受けさせてやる自信もないので無理。

 

24歳無職、今後もし歪んだ精神が治ったとして、雇ってくれる企業なんて無いだろう。我泣きむれて、ゴミとたわむる。

死んだって何も変わらないんだよ

子どもに罪はないといって望まないタイミングで妊娠出産するのは勝手だが、果たして産まれた子供がなんの罪の意識もなしに育つだろうか?わたしは育たなかった。

 

母はもう20年ほど、フルタイムの非正規雇用で働いている。手取りは新卒の大学生以下だろう。いつもお金がないお金がないと言っている。仮にも東京六大学出身で、留学経験もある才女だ。

私が大学一年の時、なぜ正社員として就職しなかったのか、そう聞いたとき母は、だってあんたが生まれたんだもん、と軽く答えた。

 

母は留学中、異国の地で父と出会い、私が生まれたが2年ほどで離婚した。私は母方の曽祖父母、祖父母、母、私の四世代同居で幼少期を過ごした。古き良き時代であった。しかし小学校入学前、母は再婚し、現代の核家族形態で生活するようになった。

 

私は良い子ではなかった。隠れてお菓子を買い食いしたり、教師に嘘をついて体育をサボったり、中学の頃には親に黙って高額な買い物をしたり、夜まで帰らなかったり、警察に指紋を取られるほどのことまでした(補導はされてないけど)。

 

警察沙汰になったときは、母には「親に殺されたいのか」とハサミを突きつけられ、継父にもバチボコにしばかれ、夏の間はしばらく生家に預けられることになった。

後日聞いた話では、私の悪事を知った祖母は、母に「向こうの国に帰そうか」とまで言ったらしい。肉親である母からも祖母からも厄介者扱いされていたのだ。

車で10分ほどの生家から迎えに来た祖母は、私が後部座席に乗り込むと、こちらも見ずに運転しながら、

「あんたのお父さんはねえ日本語も上達しなくて全然仕事もなくて、お母さんの首を絞めたこともあって」 

と話した。私は後ろで声を押し殺して泣いた。泣き声は消せた。自分も消えてしまいたかった。

 

思えば中学のこの頃から、死にたいという気持ちが発露して来たと思う。

自分は出来損ないだ、生まれてから親に迷惑しかかけていない、死にたい、そう考えるようになった。

 

人は学習しないもので、そんな大騒ぎまで起こしておきながら、また高校2年生のときに親に怒られるようなことをしてしまった。

木刀で何度も殴られた。

死にたいと思うとどんどん涙が溢れてくる。するとまた「泣けば良いと思いやがって」と言い捨てられるのだった。

高3からは流石に、もう過激なお叱りを受けるようなことはしなくなった。良い子であろうと努めた。母は、再婚しても「自分の子の学費は自分で出す」と言い、習い事のお金も自分の少ない給料から出してくれていた。このため、特に金銭面で母の負担になることはやめようと思い、高校に進学してからは塾も含め一切習い事をしなかった。

曲がりなりにも進学校という環境にいたため、のらくら過ごし、特に授業以外受験勉強と言えるようなこともしなかったのだが、世間では上の方の国立大学に進学出来た。物理的に母と離れたため、互いに程よい距離感の親子になれた。

 

離れるとたまに家族のことが思い出されるものだ。母のこと、継父のこと、年の離れた妹のこと。

母は、もともと結婚というものに向いていないのだろう、継父との関係も10年も経てば夫婦と呼べないものに成り果てた。一緒に買い物に行くことがなくなり、一緒に食卓を囲むことがなくなり……私が大学進学前、最後の家族旅行と称して沼津に行ったが、同じ車に家族全員が揃ってどこかへ観光に行くなんてのは、それが本当に最後になった。

 家を出るまで、私は道化を演じて家族を笑わせ、夫婦の仲が冷え切っていることから目を背けさせようとしていた。常に茶化して流すことで、これ以上家族がバラバラになるのを防ぎたいと思っていた。でも当時まだ小学生の妹にはそれは出来ない。彼女は、自分の父母がどんどん相互不干渉になっていくのを見せられ、母が父の悪口を言うのを聞かされなければならないのだ。それが、大学進学後の私には悲しくて悲しくて仕方がなかった。

この頃は鬱病と診断されて間もない頃だが、過去の様々な悪事に関する自責の念、この不遇な妹のことを思って毎日死にたい死にたいと泣いていた。

 

そんな時期、冒頭の「あんたが生まれちゃったから」を聞いて、鬱病特有全てをマイナスに捉えるおばけが俺に囁いた。 「お前が生まれなかったら、母はDV夫と結婚することもなく、学歴にふさわしい仕事ができて、バリバリ働いてしかるべき時に結婚出産して、幸せに生きられたんじゃないのか?」

 

ああ、そうだ。おれがうまれてしまったから、母の人生は、くるってしまったんだ。

おれが今死んでも、不憫な妹が残ることはかわらない。母が安月給で働き続けることにはかわらない。

でもおれがうまれていなかったら?

死にたい気持ちが、生まれてきたくなかった気持ちに変化して、今のおれの鬱病がある。生まれた罪を、現世で贖えるんだろうか